2021年2月14日更新
共産党宣言に書かれた、「万国の労働者よ、団結せよ!」の言葉で有名なカール・マルクス。
経済学を学ばれた方はもちろんのこと、皆さんも一度は耳にした人物だと思います。「マルクス経済学」「マルクス主義」などで知られています。
哲学者でもあり、思想家でもあり、経済学者でもあり、ジャーナリストでも、さらには革命家でもありました。1848年革命後、イギリスに亡命。資本主義社会の弊害により社会主義への移行が必然である、との理論を提唱し、その後の社会主義の思想と運動にもっとも大きな影響をおよぼしました。
理想の社会を掲げ、革命を起こそうとしたプロレタリアート(労働者階級)の英雄とうたわれていましたが、実際はどのような人物だったのでしょうか。
目次
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マルクスの生い立ち
20世紀の世界に最も多大な影響を与えた思想家の一人であるカール・マルクスは、プロイセン王国、ユダヤ人ブルジョワ家庭に生まれました。
マルクスが6歳のときにプロテスタントに改宗しましたが、その理由は、封建主義的なプロイセンの統治や1820年代の農業恐慌でユダヤ人の土地投機が増えたことで反ユダヤ主義が強まりつつあったからだと言われています。幼い頃から頭が良く、将来を期待されていました。
小学校には通っていませんでしたが、父や、父の経営する法律事務所の職員による家庭内教育を受け、当時の子供の中でも突出した環境だったため、優秀な成績でギムナジウムという中等教育機関へ進学します。学業は真面目に継続し、優秀な成績でボン大学法学部に入学しました。
しかし、法学よりもローマ法の持つ哲学性に熱中し、哲学に最も強い関心を持つようになり、卒業の際も法学ではなく、哲学の博士号を取得しています。一時は同人誌にデビューする計画を立てていましたが、結局、友人から才能がないと言われて諦めたようです。そして卒業後、弁護士ではなくジャーナリストとなり政治的な問題を批判し続けました。
卒業後は、時にはジャーナリストとして、そして時には新聞の編集長として、様々な媒体において彼の過激ともとられかねない思想を発表し、逃亡するように各地を転々と移動しながら活動を続け、そのような活動を通じて触れた様々な思想をもとに、後に続く共産主義思想を培うことになりました。
実は学生時代は不良だった?
マルクスが大学に入学した頃は、よく学生の間で決闘が行われていました。
政府より政治的な言論を抑圧されていたため、それぐらいしかすることがなく、マルクスも御多分にもれず、貴族の学生と決闘して左目の上に傷を受けました。しかもサーベルを使っての決闘ではなく、ピストルでの決闘だったようです。
マルクスは、全体的に素行不良な学生でした。酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されました。
性格的には負けず嫌いで、闘争本能が強い一面がありましたが、悪く言えば、子供っぽくてわがままで、自己中心的な性格でした。実際に、幼い頃からチェスで負けた時などは、ご機嫌斜めになるだけでなく、当たり散らして周囲から煙たがられる存在で、大人になってもその性格は変わりませんでした。
そんな性格だったからか、大学時代の浪費と放蕩を繰り返す生活の中で多額の借金を抱えていました。父は早く一人前の法律家として活動することを望み、資金の援助を惜しみませんでしたが、マルクスはそんな仕送りもほぼすべて、ナイトクラブやパブでの遊びに使ってしまいました。
盟友エンゲルスとの出会い
1842年、マルクスは『独仏年誌』を発刊するためパリへと移住し、そこで盟友エンゲルスと出会います。
マンチェスターの紡績工場のオーナーの子息であったエンゲルスは、イギリスのプロレタリアート(労働階級)について研究中の身でした。しかし、階級も生まれも違うエンゲルスとの運命の出会いは、マルクスが構築しつつあった新世界のビジョンの、最後のピースをもたらすことに。そしてエンゲルスも、マルクスの優れた能力に気づき、生涯支援しました。
マルクスは特にエンゲルスの『国民経済学批判大綱』に感銘を受け、経済学や社会主義、フランスの革命に興味を持ち猛勉強します。アダム・スミスやリカード、セイなどの経済学者、フーリエやプードンなどの社会主義者の本を読み漁り、マルクスはノートにまとめました。後に、『経済学・哲学草稿』という名で出版されています。この本で、マルクスは自身の立場を共産主義と定義しました。
マルクスとエンゲルスはやがて、政治的暴動や動乱をかいくぐって、まったく新しい労働運動の誕生を牽引してゆくことになります。
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4歳年上のイェニーと結婚
婚約して7年後の1843年、25歳のマルクスは29歳のイェニーと結婚しました。
貧困な家庭のマルクスと貴族階級の娘とでは、経済的にも思想的にも正反対だったため、保守的な貴族主義者だったイェニーの兄は、マルクスのことを「ユダヤのヘボ文士」「過激派の無神論者」と疎み、「そんなロクデナシと結婚して家名を汚すな」と結婚に反対しました。他の親族も反対する者が多かったようです。しかし結果として、イェニーはマルクスとの結婚を果たし、歴史に残る人物を支え続けました。
マルクスは経済学者でもありながら、家計の管理能力は全くなく、生活は貧困を極め、一時は離婚の危機もあったようです。波乱の多かった生涯を全うしたのは、妻イェニーの絶大な忍耐、献身と盟友エンゲルスからの経済的支援があったからと言われています。イェニー自身も、家計の管理能力などはありませんでしたが、家庭の貧困や夫の人格的欠陥を補い、3人の娘を残しています。マルクスはイェニーを溺愛していたようです。
マルクスはクズ男
少し話がそれますが、マルクスはクズ男として有名ですので、簡単に解説していきます。
ブランド品や社交パーティーも大好き、旅行三昧、家も改築や家具の買い換えも繰り返し、食事も節制しない。
挙げ句に、エンゲルスが妻を亡くした事をマルクスに伝えると、その返事が、
「そんなことはどうでもいい、金が足りないから早く金をくれ」
というクズ人間っぷりでした。
さすがにこれにはエンゲルスも堪忍袋の緒が切れ、一時は絶縁状態に。程なくその絶縁も解消されましたが、マルクスは相変わらず借金取りに追われ、エンゲルスからの支援金も返済に充てず、子供たちの学費や習い事に充てていました。それでもエンゲルスは文句を言わずに援助を続けていました。
マルクスには隠し子がいた
妻のイェニーは、マルクスの隠し子について次のように振り返っています。「1851年の夏の初めに、詳しいことには触れませんが、ある事件が起こりました。それは公私にわたって私たちの悲しみを大いに増したものでした」。
「ニム」と呼ばれたヘレーネ・「レンヒェン」・デムートは、住み込みの家政婦として長いことマルクス家の一員となっていました。ソーホーの最も手狭な住まいで暮らしていた時期ですら、一家にはつねにニムのための居場所がありました。しかし、そのあまりの親密さが危険を引き起こしました。
1850年にイェニー・マルクスが家計の金策のために大陸側に旅行をした際に、その留守中にマルクスが28歳のこの家政婦に手をつけたのです。そして彼らの子であるフレディ・デムートは歓迎されることなくこの世に生を授けました。
それでも愛されたマルクス
そういうわけで、マルクスはたいへんなクズ男でサイテーの夫で、まったく友だち甲斐もない男でしたが、あまりにも才気とカリスマに溢れているせいで、どんなにひどいことをしても周りの人がなぜか彼を許してしまったようです。妻やニム、シュラムはもちろん、エンゲルスとは熱烈なブロマンス関係にありました。
ブリュッセル在住時代
マルクス一家は1845年2月にパリを離れ、ベルギー王都ブリュッセルに移住しました。
ベルギー政府は、プロイセン政府に目を付けられているマルクスがやって来ることに警戒しました。当時のベルギー王は政治的亡命者には比較的寛容だったとされていますが、それでもマルクスに対しては警戒したようです。
ベルギー警察は入国したマルクスに対して、「ベルギーに在住する許可を得るため、私は現代の政治に関するいかなる著作もベルギーにおいては出版しないことを誓います」という念書を提出させましたが、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けました。
そして、プロイセン政府の強い圧力により、マルクスはプロイセン国籍を正式に離脱することとなり、以降マルクスは死ぬまで無国籍となりました。
唯物史観と剰余価値理論の誕生
1845年、マルクスは生産とそれに関連する人間関係が歴史の土台になっているとする唯物史観を生み出し、共産主義思想を確立していきます。この考え方はマルクス最大の特徴として彼の著書でたびたび引き合いに出されました。
また1847年に『哲学の貧困』を執筆し、プルードンが示した労働者の賃金と、労働で生産された生産物が同じ価値だとする主張を批判。両者の価値は釣り合っておらず、労働者に支払われる賃金の価値の方が低いと反論しました。
そして賃金は労働者を奴隷にしていると主張し、剰余価値理論(賃金以上の労働によって生み出される価値のこと)を主張します。とはいえ、この頃は明確な言葉として使用されませんでした。
共産主義者同盟の結成と『共産党宣言』
1846年、この頃のマルクスは「現在の問題は実践、つまり革命である」と語るようになっていました。
1847年に、国際秘密結社「共産主義者同盟 (1847年)」の結成が正式に決議されました。そしてマルクスは、1848年の2月革命直前までに小冊子『共産党宣言』を完成させ、同じ志を持つ仲間たちに配られました。エンゲルスとの共著となっていましすが、ほとんどがマルクスによる執筆でした。
この『共産党宣言』は「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という有名な序文で始まり、ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説いています。
そして最後に、以下の有名な言葉で締めくくられています。
「共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。万国のプロレタリアよ、団結せよ」
『共産主義宣言』は、これまでの歴史は階級の対立による戦争であると定義。そして、これまでの歴史から、労働者(プロレタリア)が共産主義革命を起こしブルジョワを打倒することは必然であると説いています。
そして2月革命が起こる
1847年に起こった恐慌によって失業者があふれかえっていました。かねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都パリで、1848年2月22日に暴動が発生し、24日にフランス王ルイ・フィリップが王位を追われて共和政政府が樹立される事件が発生しました(2月革命)。この2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及し、全ヨーロッパで自由主義・民主主義・社会主義・共産主義・ナショナリズムが燃え上がりました。
3月5日、マルクスはパリに共産主義同盟の中央委員会を創設。議長に就任し、革命活動を開始しました。3月21日には17カ条から構成される『ドイツにおける共産党の要求』を発表します。
またマルクスは革命にはプロパガンダと扇動が必要だと考え、革命扇動を行う工作員をドイツ各地に送り込み、最終的に300〜400人の派遣に成功しました。さらに新ライン新聞を発行したり、ポーランド人やイタリア人の民族運動を指示したりと盛んに活動します。
しかし、マルクスのこうした努力とは裏腹に、革命への熱狂は冷めていく一方でした。イギリスやパリで蜂起が発生してもすぐに政府によって鎮圧されてしまいます。
危機感を持ったマルクスは新ライン新聞で革命を起こすべきだと主張しましたが、風当たりが増すだけで効果はなく、ついに国を追われてしまいます。
以後もその革命思想のためにブリュッセル、パリ、ケルン、パリと逃亡生活を続けたのち1849年にロンドンに移った後は死ぬまでロンドンで亡命生活を続けました。当初は一時的な避難場所のつもりだったようです。
ロンドンでの生活
移住当初は、家具付きの立派な家を借りていましたが、案の定、家賃を払えるあてもなく、家は差し押さえられてしまいました。そして貧困外国人居住区だったソーホー地区に身を移しました。
スパイの報告書によれば、「マルクスはロンドンの最も安い、最も環境の悪い界隈で暮らしている。部屋は二部屋しかなく、家具はどれも壊れていてボロボロ。上品な物は何もない。部屋の中は散らかっている。割れたコップ、汚れたスプーン、ナイフ、フォーク、などが所狭しと並んでいる。部屋の中に初めて入ると煙草の煙で涙がこぼれ、何も見えない。全ての物が汚い。」という有様だったといいます。また、当時のソーホー周辺は不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命しました。
『経済学批判』と『資本論』
マルクスの最初の本格的な経済学書である『経済学批判』は、1850年9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進め、1857年から1858年にかけて一気に書きあげたものです。
『経済学批判』は本格的な経済学研究書の最初の1巻として書かれた物であり、その本格的な研究書というのが1866年11月に出版した『資本論』第1巻。
「労働者の貧困と隷従と退廃が強まれば強まるほど彼らの反逆も増大する。ブルジョワはプロレタリア階級という自らの墓掘り人を作り続けている。収奪者が収奪される運命の時は近づいている。共産主義への移行は歴史的必然である」と結論づけている。
マルクス死去
1881年、マルクスの妻イェニーがこの世を去ります。マルクスは深く悲しみ、精神的にも肉体的にも弱ってしまいます。独り身となったマルクスは病気の治療のため、各地を放浪。
しかし、1883年に娘のジェニーがこの世を去ります。それを追うように、2ヶ月後の3月14日ロンドンで椅子に座ったままこの世を去りました。
おすすめ書籍・映画
【書籍】
・マルクスる?世界一かんたんなマルクス経済学の本
マルクスを簡単にわかる超入門の一冊。まずはこれから始めよう。
・超入門 資本論(小暮 太一)
教養として知っておきたい最重要経済書を2時間で読む超入門書。
・資本論(マルクス) 1 (岩波文庫 白125-1)
本格的に資本論を読破したい方はこちら。
・共産党宣言
「今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」という有名な句に始まるこの宣言。必見の書。
【映画】
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